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Coyapuyo Re:Works

30代に突入したITエンジニアが新卒で9年務めたSIer系から転職してみた結果、定時で帰れるようになりました。

(努力の正体)追い込まれているのは全然楽しそうじゃない

■雑記・コラム
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こんにちは、こやぷよ(@coyapuyo)です。

 

自分をコントロールすることに長けている人っていますよね。

行動力があり、ストイックにやれる人。

僕はそんな風にはなれません。

一体どういう理屈でそんなにストイックにやれるでしょうか。

 

僕のようにすぐに快楽や怠惰に流される人間からすれば、

それは心底に不思議なものに感じられるものです。

 

 

甘えや他の選択を許さないように「追い込む」

 

何故やれないのか、やらないのか。

 

一般によく言われたいりするのは・・・

・まだまだ選択の自由があり、

・のほほんとしていられる余裕があり、

・やらなくても死にはしない状況だし、

・結局のところなんとかなっているから、

だからやることが出来ない。

こういう言説はよく見かけますね。

 

そう、本当に覚悟を決めるためには、

一度追い込まれて、身につまされるような体験をするか、

あるいは、意図的に追い込まれた状況を作る必要があるという訳です。

 

人は、楽が出来る余裕があるのなら、それに吸い寄せられる。

僕たちが「ストイックさ」それに近い力を得るためには、

甘えないように「追い込まれた状況」を作る、ことだけかもしれないと思えますね。

 

実際に自分の甘さを理解している人であれば、

あえて意図的に追い込まれた状況を作るやり方をしている人もいるんじゃあないでしょうか。

 

 

・・・そして僕も、「そうだ」と思っていました。

 

 

追い込まれているのは、全然楽しそうじゃない

 

「追い込まれた顔をしている」

就活中、久しぶりに会った友人にそんなことを言われました。

 

なるほど確かに追い込まれた気持ちがあるのは事実だけれど、

顔や言動にそれが滲み出ているとはあまり自覚していなかったです。

 

確かに、楽観視していたよりは現実は厳しい面もあり、

また色々と自分が甘かった面も分かってきていたので、

追い込まれていたのは事実ですし、追い込む必要があるとすら思っていました。

 

そして、その友人はさらにこう続けました。

 

「追い込まれているのは戦前楽しそうじゃないし、苦しい」

 

僕はこの言葉に奇妙な違和感を感じました。

 

違和感の理由、それは。

他ならぬ、この言葉の発した友人こそ、

仕事でもストイックにやるタイプであり、

朝方にまでおよぶ深夜残業を繰り返したり、

上流から下流まで他の人の処理しきれない仕事までこなしたり、

たくさんのトラブル処理に奔走している人物であり、

僕から見て「最も追い込まれている」人物だ、と一見思えたからです。

 

最後に、その友人はこう締めくくりました。

 

「自分は一貫して”面白そう”と思うことしかやっていない、

 皆結局、やりたくないと思っているからやらないのであって、

  どうせ死にはしないのだから崖から飛び降りることを楽しもう」

 

なるほど、これはいわゆる「本物」とかいうやつではないでしょうか。

あえて安易な表現をすれば「凄い」とか「天才」と呼ぶべきものだと思います。

もちろん、実際には、本人はそんな簡単な言葉で簡単に片付けられない程の経験と努力をしてきているのでしょうけれどね。

それを簡単に「凄い」と括るのも失礼な話ではあるのでしょう。

 

 

そもそも、追い込まれないと始めないのはどうなのか?

 

僕は、「凄い」と言われるレベルまで昇華・大成している人は、

ほとんどがこのようなパターンだと思っています。

 

大成するような人は、

「時間がなからろうが、お金がなかろうが、やる。

  息をするようにそれに取り組んでいる」

 

好きだから、楽しいから、やりたいからやる。

その結果として追い込まれることはあっても、

追い込まれたからやっているんじゃあ決してない。

 

周りからは追い込まれているように見えるにも関わらず、

本人は「え?追い込まれたら楽しくないじゃん」的に感じていたりするものです。

嫌々ではなく楽しんで先手を打って主体的に取り組んでいるというわけです。

 

 

「努力」の本当の意味、定義とは何だろう

 

よく日本では、「努力」という言葉が使われます。

僕もさっき使いました。

 

しかし、実際に使われるときには、

「努力」=「根性」「忍耐」「我慢」

みたいな図式で語られることが多く、

嫌な事に取り組むみたいなニュアンスが多いと感じます。

 

そして、努力(ここでは我慢の意)は尊いものであり、

「努力していないのは悪」みたいな使い方になりがちだと思います。

先に苦労ありき、という印象です。

 

でも、本当の意味での努力というのは、

前述の友人のように「努力を苦労と思っていない」んですよね。

やりたいことを楽しんでやっているだけで、

その過程の困難を周りが見て「苦労している」と思っているだけなんです。

 

本当の「努力」の正体は、我慢して苦労することではなく、

のめり込み、ハマり、没頭すること、です。

先に、没頭があって、結果、苦労しているように見えるだけなんですよね。

 

努力と勇気の関係

 

とはいえ、「言うは易く行うは難し」なのも事実として横たわります。

 

自分には、そんなにハマるものや熱中できる何かなんてない!

というのは現代においてありがちな話ですよね。

 

いくら「努力の正体みたり」と言って分かったようなふりをしたところでストイックに振る舞える訳ではありません。

僕自身がまさにそうです。

 

では、一体どうすれば良いのでしょうか・・・

 

ここで友人の別の言葉をもう一度引っ張り出してみます。

彼はこう言っています。

 

「崖から飛び降りなさい、それを楽しみなさい」

 

「飛び降りて死ね」という意味ではありません。

大抵のことで失敗したって死にはしないし、

ましてや守る家族もないような独り身であれば、

なんだって出来るのだからガンガン飛び込んで行けば良い、

とそういう趣旨でいっているのですね。

 

一言で言うと、これは「勇気」と言い変えて良いと思います。

すり減って消耗するようなタイプの我慢の努力は必要ないですが、

この「勇気」というのはどんな人にも必要と感じます。

例え努力が嫌いで、減速してゆるく生きたいという人であっても。

 

 

勇気なんて言い方をするとえらく高尚なものに思えますが、

前述の友人のタイプで言えば、

「いつもギリギリで生きていたい」

「ふらふら崖の上に立つように生きたっていいじゃない」

といった風にスリルをゲーム感覚で楽しんでいます。

勇気を出すのは難しくても、

ゲーム感覚で楽しむとう感覚ならまだ理解出来るような気がしませんか?

 

 

僕自身、だらしがない性格です。

それは今も変わりませんし、変れていません。

僕は、厳しい努力をやみくもに賞賛する訳でも、努力しなくても良いと思うわけでもありません。

 

ただ、少なくとも「我慢の努力」よりも「勇気の努力」の方が物事が好転するのは肌で感じています。

勇気を出して、誰かに頼ってみた。

勇気を出して、誰かを助けてみた。

勇気を出して、会社を辞めてみた。

勇気を出して、何かを始めてみた。

勇気を出して、聞きにくいことを聞いてみた。

勇気を出して、本当は無知であると認めた。

勇気を出して、隠していたことを伝えてみた。

勇気を出して、作ったものを人前にさらしてみた。

勇気を出して、気になる人に連絡をとった、会いに行ってみた。

その人の恐怖や怖さと向き合う行動、

こういうのを本当の努力と呼ぶべきなんじゃないでしょうかね。

 

皆が同じで安定していて協調性がなければ成立しなかった時代の「我慢」。

皆がそれぞれ好きなことをしていても迷惑が掛かりにくくなり、

かつ変化が早くなった時代の「勇気」。

どちらも重要ですが、今の時代背景を考えればどちらが有意かは分かる気がしますよね。

 

もちろん、現実問題として難しさもあります。

ただ、僕を含めて、

あまりにも勇気を出す場面が少な過ぎるという人は、

ちょっとぐらい勇気を出す場面を増やしてみてもいいんじゃないかなと、そう思います。

 

 

さあ、アナタは追い込まれていますか?

それは楽しいですか?

崖から飛び降りていますか?

 

ではでは。