こんにちは、無職のこやぷよ(@coyapuyo)です。
皆さん、仕事してますか?
聞くだけ野暮でしたね、仕事はやって当たり前のもの。
皆それぞれの背景を抱えながらも様々なスタンスで仕事をされているんだと思います。
突然ですが、こんな記事を見かけました。
https://www.huffingtonpost.jp/shoichi-kasuo/a-back-hip-circle_b_6239972.html
こんな僕でも働いていた時期があるのですが、
その時の僕の想いはまさにこの少女と同じものだったのです。
逆上がりの少女
詳しくはリンク先を見て頂きたいのですが、ざっくり言うと・・・
記事の中では、ひとりの少女が登場します。
この子は先生と一緒に鉄棒の「逆上がり」を何度も練習し、
苦難の末ようやく成功させます。
青春スポコンものかと思われる感動の展開ですが、
少女が最後に口にした言葉は次のようなものだったそうです。
「もうこれで、逆上がりの練習をしなくて良いんだね!」
先生は思わず絶句してしまいました。
終わらせることが目的になってしまう仕事は確かに存在する
これは、なにも体育の授業だけに留まらない話だと感じます。
冒頭でも述べた通り、
僕の仕事に対する取り組み方はまさにこのようなものでした。
僕には、特にやりたいこともありませんでした。
自分を押し殺しているウチに何もやりたいことがなくなってしまったんです。
唯一求めているとしたら、
それは「平穏無事に何もしていない状態」だったのかもしれない。
「何もしていたくない」のが究極の目的なので、
例えば何かをしなければいけなくなっても、
それをするのは「その何かをやるため」ではなく、
「片付けてしまって何もなくてよい状態にするため」でした。
これは全く逆のものです。
好きなことを仕事にする、とか、
与えられた場所で咲きなさいとか、
与えられた仕事を楽しむようにすること、
そういったものとは。
敵の敵は友、共通の敵がいるのなら利害は一致する。
目的はどうあれ「その物事を片付けてくれる」のであれば、
依頼人と作業者の利害は一致しているように見えるかもしれません。
しかし、この微妙な目的のズレは些細なようでとても大きなものです。
ある程度バランスが取れていてこなせるウチはそれでも回るでしょう。
でも、「終わらせることが目的」の場合は、
そもそもやらなくて済むのならやらないで済ませる方へ向かいがちです。
そして、終わらせることで次の物事が降って来るのであれば、終わらせたくはありません。
そう考えてしまうでしょう。
ある教養範囲、利害の一致を越えたとき、
(そしてそれは往々にしてとても狭い範囲)
「何が何でも成し遂げる」という推進力が物凄く弱いわけです。
終わらせることが目的とまで言い切る人はちょっと極端かもしれませんが、お金のために働いているなんていう意識の人も恐らくこの傾向が見られるんじゃないかなと思います。
皆それぞれ目的が微妙に違っていて、
許容できる範囲や方向が少しづつ異なっている、
だから集まったときにうまくいかなかったりするんですよね。
本当にやりたいと思えることは何だろう
色々な事情がそれぞれにあるけれど、やっぱり
「誰に止められてもやってしまう」
「お金や時間がなかろうがやる」
「息をするように出来てしまう」
「ワクワクする、没頭する、時間を忘れる」
こういった仕事の方が終わらせるための仕事よりもよっぽど素敵だと思う。
見つけよう、終わらせるためじゃない仕事を。
そして、それはきっと「職業単位」だけで考えると永遠に見えてこない。
その人にとって、終わらせるための仕事が全くゼロの職業なんてきっと存在しないだろう。
(あったらそれを人は天職と呼ぶ、そうとうにレアなものだと思う)
どんな職業でも色々な要素に分解出来ると思うし、
色々な面を持っていると思う。
ある面が楽しめるのならそこを突き詰めれば良いし、
そのためにやりたくない(例えば会計処理)が必要ならやるしかない。
なんなら、自分にとっての終わらせるための仕事は、
他の人に頼んだり外注することだって出来るかもしれない。
ありもしない理想の天職を追い求めるよりも、
要素に分解して楽しんでいく、
これも置かれた場所で咲くことのひとつだと思う。
そして、究極的には、
天職がありもしないのならばそうして作っていけば良いと思う。
ひとつ言えることは、
自分の声に耳を傾けないで「終わらせるための仕事」ばかりしていると、
依頼者も周りの人も本人もあまり幸せにはなれない
とうことでしょうか。
終わらせるための仕事は、終わりにした方が良いのかもしれないですね。
ではでは。
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