「拘らないことが拘り」のように、謎の矛盾を含む言葉遊び

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こんにちは、こやぷよ(@coyapuyo)です。

最近ラジオを聞いていて、こんな趣旨の発言が流れて来ました。

私、道があったら迷わず進んでしまうので、迷ってしまうんです。

迷わないのに、迷うのか?

というツッコミが入っていましたが、言わんとすることは何となく分かります。

要は、次のようなことが言いたいのかなと思いました。

  1. あまり考えたり疑ったりしないで目の前に何かがあるのならとりあえずやってみる、そこには迷いはない。
  2. 結果、どこに行きたいとか、今どこにいるのかとか、そいうことを意識していないので俯瞰的に見れば迷っている。
  3. けれど、次に道が表れればまた迷わず選ぶだけなので困っていない。

面白いですね。

この場合言葉は矛盾してますが、本人はブレていなさそうです。

と、こんな風に謎の矛盾を含む言葉遊びって他にもある気がしませんか?

矛盾

目次

拘らないことが拘り

「俺は拘りってないんだよねー」

「いや、何か変にこだわってるのもダセーとか思っちゃって」

「拘らないことにしてるんだよねー」

なんて言っている人がいたとします。

「拘らない」ことに「拘っている」常態ですよね、コレ。

なんとなく不思議な面白さがありますよね。

この記事では良し悪しや善悪を問いたいのではないのですが、

単純に状態として興味深い気がします。

人を批判する奴が嫌い、という批判

そして、自分が最も気にしているのがコチラ。

「人を批判する奴が嫌い、という批判」です。

これに陥ってしまう人はとても多いんじゃないでしょうか。

自分は何かに批判的な人や言葉が強すぎる人は苦手です。

そのことに対して、

「人を批判する人はちょっと好きになれないな」

という感想を抱いています。

ところが自分も人間ですから、

何かを批判することも出てくるし、

ついつい声が大きくなって言葉が強くなる、

なんてこともないわけではありません。

仮にもブログなんてワールドワイドなWebに公開していれば

なおさら陥りやすい状態にあるかもしれません。

結局、

「人を批判する人は嫌いだから、そういう人は改めるべき」

みたいな主張に収束していきがちで、

それ自体が批判的な発言になっているという奇妙なオチ。

そしてそのことに無自覚だったりすることも。

最後に

この世に聖人君子様みたいな人間はいない訳ですから、

人間が矛盾をはらんでいるのは当然だと思いますし、

そうでなければ逆におかしいとすら僕は思います。

ただ同時に、

少なくとも無自覚であるというのは避けた方が良いとも思います。

変な矛盾に陥っているということ自体には、

気が付けるようになるべきだと思うんです。

その上で、それでも主張を曲げないべきなのかどうかを考えて、

言い続けると判断したのならそれで良いんじゃないかな、と。

矛盾を真に掘り下げてく過程で、

自分が本当に思っていることは何なのか、

どうしてそんな気持ちになるに至ったのか、

本当の本質とは何なのか、みたいなことを考えるきっかけになるハズです。

例えば、「批判そのものが嫌なのではなく、単に自分が仲間はずれなのが嫌なだけだった」とか、ね。

そんなことが見えてくることも、あるかもしれません。

変な矛盾みたいなことになっているときは、

軸がちょっとズレていて本当に言いたいことはそこではないというケースもありそうです。

さあ、アナタの矛盾の本当に言いたいことは何ですか?

ではでは。

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