知見が溜まっていく楽しさ、けれど知見を使って何を為したい訳でもない

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こんにちは、こやぷよ(@coyapuyo)です。

「それ知っている」

「あれはやったことある」「こうだった」

経験や体験をしていくと、そういった知見が蓄積していくことはある。

好奇心に身を任せれば、その広がりは心地よいものにも見える。

今日は自分の中のそんな感覚について、

整理がてら書いてみたいと思います。

目次

元々好奇心は強い方だけれどそれ以上に理性が勝つ

僕は、元来の性質としては好奇心は強い方だと思う。

色んなことを知っていたいし、体験しておきたい。

興味自体はある。

でも、理性がそれを拒む。

「そんなことをしても意味があるのか」

「それは何に使うのか、役に立つのか」

「それをするのは大変だ、その困難に見合う価値があるのか」

どこまでも、打算的に、考える。

最終的に、失敗しても痛くも痒くもないレベルのことした実行しない。

押し殺している。

何か目的のために知見を得たい訳でもない

ここまでの話とは逆説的になるけれど、

「何の意味があるのか、効果はどうか」と問いただすということは、問いただす前のその衝動は、目的に根ざしたものではないと言える

目的が先にあってそのためのやろうという衝動ならば、

そんな問は不要だと思う。

先に衝動があって、その意味や目的を後から問うているんだと思う。

単なるスタンプを押したい衝動

やりたいものはやりたいし、やりたくないものはやりたくない。

多分多くの人は、やりたい衝動に関して難しいことは考えていないと思う。

だから、当たり前だけれど、

やるならやるし、やらないならやらない、それだけだ。

僕は、第一印象が悪かったら興味を失う。

その意味でパッと見ただけで満足、終わることもある。

一度体験してもう知っているものには興味を示さない。

意味がないとか、無駄だと思ってしまうことがある。

それは何故か。

僕の興味は「スタンプを押したい」感覚に近いものがあるからだ。

「それ知ってるスタンプ」をどんどん押していきたい。

承認欲求に属する何かが表れていると思う。

僕は知りたい。

知っている上で是も非も含めて選択しているのならそれは個人の裁量だ。

けれど、知らないものは選ぶことが出来ない。

知らないが故にもっとベストな選択を逃してしまうことが怖い。

それが恐ろしくてたまらないのだと思う。

この感覚に基づけば、

一度知っているものは無駄だと考えるようになってもおかしくはない。

スタンプをコンプリートしたいという究極の目的には合致していないからだ。

インターネットの普及によって、

もはやたくさん知っているだけの価値はかなり低くなってしまった。

仮にそんなたくさんのスタンプを手に入れることが出来たととして、

誰に自慢して誰に承認してもらおうというのだろうか・・・

知見の海は広く、僕の手のひらは小さい。

さあ、皆さんはスタンプ的な好奇心、ありますか?

ではでは。

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