こんにちは、こやぷよ(@coyapuyo)です。
「1番じゃなくちゃ駄目なんですか?2番じゃ駄目なんですか?」
いい質問ではありますよね。
実は、この問題は結構難しい問題だと個人的には感じています。
1番であることの価値
そりゃあみんな、1番になれるものならなれた方が嬉しいには違いありません。
けれど、実際問題1番になるのは難しい。
それが圧倒的現実。
でもですよ?
小さい頃ぐらいだったら何かのジャンルで一番になった経験は、ひねり出せば意外とあるのではないでしょうか?
ただし、そのひねり出した1番というのは、ある制約つきであったハズです。
家族で一番。
クラスで一番。
学年で一番。
学校で一番。
村で一番。
市で一番。
県で一番。
ある範囲においては、誰しも何かしら(比較的)得意だと言えることがあるハズです。
身近に何かが得意な人がいれば、その人はある種のヒーローになれる。
その得意ジャンルにおいては周りから頼られたりしたかもしれません。
これはそのある程度絞られた範囲において
・希少なことであり、
・かつ、すぐにアクセス出来る身近な人だった
だから価値かあった、と言えると思います。
インターネットの功罪
村で1番ということにも、ちゃんと価値がありました。
しかし、最近は状況が変わってきていると感じます。
交通手段の発達や、メディアやインターネットの発達。
これらによって、以前より距離的・物理的な制約が比較的少なくなって来ています。
例えば有名人には、テレビをつければ会うことが出来ます。
(実際には見ているだけですが)
イケメンや美女も簡単に目にすることが出来ます。
仮に、地元のちょっとした有名人とテレビスターを比べてしまったとします。
そうすると、テレビスタースターに対しての方が「キャー!!」となる可能性は高い訳で、影響力も強いですよね。
遠くのものや他国のもの。
それが何であっても以前よりは簡単に触れること、手に入れることが出来るようになってきました。
手に入れるだけではなく、瞬時に情報を集めて比較検討することも出来るようになりました。
こうやって簡単に比較まで出来るようになると、
選択肢の中から人が選んでしまうのは、その中で一番良いものに偏りがちです。
しかも、ネット系サービスはどこでも受けられるし、モノであっても通販で手元に届く、つまり村に囚われず場所を選ばない性質を持っています。
身近な人やモノで妥協しなくても、世界で売れている人や優れたモノを手に入れることが出来てしまう。
つまり、今までは身近な村の1番でも選ばれる価値があったものが、皆が世界1位に簡単にアクセス出来るようになったおかげで、世界で1番や上位のモノ以外の価値が薄れてしまうのだと思うのです。
ランキングの上位にいないと目にも触れないし、逆に言えばランキングの上位にいること自体がさらにランキングを高めることになる。
世界1位以外に価値はない、そんな時代が来ているのだと感じます。
東大の中においてさえ優劣は存在する
しかし当然ながら、世界1位を目指さないといけないなんてイバラの道。
誰にとってもつらいものであるはずです。
いわゆるところの「競争」の辛さがそこにはあります。
だって、村で1番頭の良かったあの人でさえも、東大に行ってしまったら東大の中では最下位かもしれない。
どこまで行ったって上には上がいるものです。
上位数%の良質なものに皆がアクセス出来て、上位数%にしか価値のない時代にどうやって生き残っていけば良いのでしょうか・・・
価値観の多様性と値付けが機能すれば・・・
競争を苦しく感じてしまうのは、「1番」を唯一のものと捉えているという罠のせいだと思っています。
近代の日本では特にかもしれませんが、あるひとつのレールや成功モデルがあって、それに沿った1番のものが勝つ、これが根底的な思想にあるのだと思います。
そしてそのレールからこぼれ落ちたものは敗者となり、2度と起き上がることはない、という考え方ですね。
これが前提にあると競争はとてもツラいものになってしまいます。
でも価値観なんてほんのいっときの時代背景によるもので、これからの時代にはもっと複数のベクトルのたくさんの1位があって良いのだと思います。
決められたレールで1位じゃないといけないと言われれば、そのジャンルで1位になれない人はとても苦しいことになります。
でも、本当はもっとたくさんのベクトル・軸での1位があるハズです。
たとえ何かで勝てないとしても、どれか得意なことで上位が目指せればそれで良い。
皆がどこかで勝てるのであれば、別に競争のも悪いものではありません。
そして、たくさんの1位を作るためにはもうひとつ、
格差が少ないことを求める=皆に同じ価値を求めるとなってしまっているのをやめる必要があると思っています。
現代日本の企業では大体同じ賃金体系のレンジに押し込めようとするので、
・給料分の仕事はしてもらう、とか
・給料は同じだけど(同じなら)限界まで仕事をしてもらう、とか
・同じ給料なのにあの人は頑張っている、とか頑張っていないとか、
そういった不平不満が生まれてくるのだと思うのです。
普通のサラリーマンでは、優秀な人でもそうでない人でも給料は劇的には変わらない。
得意でないことにも同じ給料を支払い、同じだけの働きを求めるからおかしなことになる。
成果が少ないのなら正直に安くすれば良いのです。
そんなことをして給料を安くされたら、生きていけなくなる。
確かにそうです。
でも案外そうでもないとも言える、と僕は思うのです。
近くのコンビニ行くのに高級車が必要でしょうか?
多くの人のニーズにとっては軽自動車で十分なハズです。
別に高級車ほど立派でなくてもちゃんと利用価値は発生するものです。
近くのコンビニ用に高級車を買うのはコストが高すぎるから、ですよね。
良いものにはちゃんと高い値をつける。
そうでないものにはちゃんと安い値段をつける。
厳しいようですがこれをちゃんとやらないとおかしなことになると思うのです。
高級車も軽自動車も同じ安い値段で売られていたらそれは高級車の方が選ばれてしまうし、
高級車も軽自動車も同じだけ高く売られていたら軽自動車が買えなくなってしまう。
最高の機能でなくても、安いことに価値ががあることもあります。
工業製品では、ローエンドや、ミッドレンジ、ハイエンドモデルなんて価格帯を変えて展開することがあります。
サービス業でも、松竹梅でコースを提供するのがセオリーでしょう。
ですが、こと人材に於いては平等の名のもとにこの値付けが起きないのです。
値付けに加えて、解雇規制の厳しさや会社負担の大きさも流動性を下げています。
1度就職すれば、たったひとつの得意でないことで不利な価格帯での勝負を強いられ続けてしまうこともある。
そして、月に20万円稼ぐほど得意なことがない人は、0円(職を得られない)という極端な状況になってしまうことだってある。
もちろん時代背景的なこともあります。
成熟していない社会でこんなことをやったら大変なことになるでしょう。
平等を勝ち取るのにどれだけ苦労した歴史があるのかも忘れてはいけません。
最後の最後は生活保護だってありますし、本当の意味で20万円か0円かといった極端な話でもありません。
ただ、今の日本社会のフェーズとしてはちゃんと価格差をつける方が実は、
適切な受給マッチングが出来るのではないか?
自身の目指す軸も柔軟に変えることが出来て良い方向に働くのではないか?
今の平等は悪平等になっていいか?
なんてことを考えています。
もちろん、ちゃんと適切な市場原理が働くことなどの前提が必要ではあるのですが・・・
うーむ、1番でなければならないのか問題、難しいですね。。。
村の1番というだけでは生きられないかもしれない時代。
さあ、あなたはどう生きますか?
ではでは。
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